音楽と香気
『「もしも音に匂いがあったなら...、」と言ったのは、20世紀初期のフランスが生んだ天才芸術家ジャン・コクトーですが、その頃まで主流であった大時代的装飾過剰な音楽を皮肉り、「...その臭いにいたたまれず、誰しもそこから逃げ出すだろう」と酷評しました。これは今の人にも聞いて貰いたい言葉ですが、核心を突いていると思われるのは、「馨(かおり)を聞く」などというように、音と香りがとても似ているということです。どちらも思考を飛び越え、直接大脳に届いてしまうという不思議な感覚で、音も匂いも記憶を即座に喚起する、という原始的反応は良く知られていることでしょう』
上は細野晴臣氏の文章の抜粋で、同氏監修の『美しい時』という曲集の解説に載っていたもの(コクトーの典拠ご存知の人、教えてください!)。書かれて10年以上は経つと思うが、当時は多くの人が電話を持ち歩き始めた頃でもあった。町中には安易に流される電子音などが氾濫している状況で、とても共感した文章だった。
コクトーの仮定によって、もし音が匂いとして知覚されたら、或いは味として感ぜられるものであったら、触れることができるものであるとしたなら、社会に溢れる音を私たちはどう感じるだろう。きつく、苦く、ちくちくしたものが多いのではないか。それらがごちゃまぜになった刺激に、たちまち感覚は麻痺し、感受することを拒否してしまうことだろう。
以前、静かな春の日に、田舎のあるお宅で黒電話のベルの音を耳にした。こんな澄みきった音色だったろうか。つかの間心を奪われてしまった。あれが当たりまえだった時代があるのだ。かつてはあの音すらけたたましく耳障りに感じていたように思うが。
自分も鼻をつままれないような演奏を心がけたいと誓うのであった。
☆写真 クラシックカーレースのミッレ・ミッリア(1,000miglia)を記念して調合されたオー・デ・コロン「ノスタルジーア」。サンタ・マリア・ノベッラ調香薬局製。で、頂き物(grazie!!)。ラベルにハンドルを握る手が見える。「クラシックカーレースを愛し、そして去っていった人と車への郷愁が甦ります。タイヤの焦げる香り、ウッドステアリングの香り、レザーシートの香り等が往年の名車を彷彿とさせます」とか。
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